Y) 材質感を大事にしよう!

私たちの身の回りには、たくさんのものがあふれています。ものがたくさんありすぎるので、かえって私たちは、ものから遠ざかっているように思います。自分たちの快的で個性的な住まいをお望みなら、その住宅を愛せるようにならなければなりません。愛するにふさわしい住宅というのであれば、時間とともに住まい手との関係が深い味わいのあるものになっていって欲しいと考えます。そうした意味で、私たちが常日頃、一番目にし、手に触れる、空間を包み込む内部の皮膜としての、壁、床、天井の仕上げ材は親しみのある適切な材料を選んでいく必要があります。その選択を間違うと、せっかく考えぬかれた空間でも、大変味けないつくり事めいたものに感じられてしまう危険性があるのです。

普通、私が建築家として、住宅の良し悪しの判断をせまられたような時、その住宅の空間構成を別にすれば、その住宅の基本的な仕上げ材の使われ方の良し悪しを見て判断するようにしています。それは、その住宅を作った人の、ものに対する考え方やセンスの程度がそのまま表われてくるからです。また、納得出来る材料の使われ方をしている住宅は、それなりに、ある程度以上の空間の質をも確保しているものです。画家であれば、キャンバスや絵の具の、書道家にあっては墨や紙、陶芸家にあっては土や釉薬といった、それぞれの材料の材質感を大変大事に考えるはずです。建築家も、ものの材質感といったものには、非常に敏感になるものです。それは、ものに対する愛情であり、その愛情はまた、ものを作り上げていく前提でもあるのです。そうした、ものに対する愛情を持たない限り良い作品は生み出し得ないでしょう。

建築の場合、材料のテクスチャーは、非常に空間に意味を与えます。しっとりとした空間、あるいは柔らかな空間とかいう、空間の肌合といったものは、使っていく材料のテクスチャーの意味を考えることなしには、演出することは不可能です。何故か安っぽい感じがするとか、ギスギスした感じがするとかいうのは、こうした材料のテクスチャーを、うまく処理出来なかった場合が多いのです。色は、ある程度目につくこともあって、おかしければ比較的すぐに気がつくのですけれど、この材質感の違いは、一見しただけではなかなか見ぬくことが難しく、以外に妥協してしまうことが多いのです。ところが、こうした材質感の違いは、後になって効いてくるのです。

特に、最近では新建材が大部分といってもいいほどの使われ方をしていますので、私たちは誤魔化されていることにも気付かないあり様です。木でない木、紙でない紙、石でない石、等々、たくさんのプラスチック製品が私たちの周りにあふれています。そうした、キッチェ文化が一概に悪いとはいえませんが、最終的に考えれば、決して安くはない新建材をその見てくれだけで選んでゆくことは、あまりすすめられるものではありません。私たちは小さい時から、ものの持つ意味をその材質感を通して、自分の視覚の裏に養い育ててきているのです。木肌のもつ美しさ、紙の持つ柔らかさ、石の持つ重厚さ、それらは私たちに改めて安心感を懐かせてくれるでしょう。やはり、自然材の持つ豊かな感触は、私たちに長い間にわたり、ゆったりとした落ちつきと、深い味わいを感じさせてくれます。本物と、にせものの違いは、時間が判定してくれるものです。少なくとも、住宅は使い捨ての文化であってはならないと考えます。キンキラ、ピカピカの建売的発想を、もう一度問い直す時代ではないでしょうか。

 


Z) プライヴァシーと同じにコミュニケイションも大事なことだ。

戦後急速に核家族化が進んでくる中で、家族の崩壊ということが言われだして久しくなります。蒸発、離婚、子供の非行化、家庭内暴力、中学生の暴力化等それはそのまま、ひとつの社会風俗史として成立してしまうほどです。嫁と姑との関係に始まって、夫婦問のトラブル、老人問題、親と子の断絶、子供の情緒不安定化ということで、様々に揺れる生々しい戦後の家族像が浮かび上がってきます。こうした人間の心の問題が全て家というものを中心として発生し、またそこに原因が求められるということは、人間の形成、あるいは、人間の在り方にいかに家というものが抜きさし難い意味を持ち続けているかということが分ります。ことは、それ程単純でないにせよ、こうした問題の背景には確かに、家の持つ求心性が薄れてきたことがあることは事実なようです。

こうした戦後の家庭のありようを、住居論的に見ていくと、そこに極めて日本的な事情が隠されていることが指摘出来るように思います。戦前の、ぶっ通しの和室空間から、戦後、寝食分離、寝室分離といった方向で空間の機能分化が押し進められてきましたが、それと同時にプライヴァシーという概念が一般化され始めてきました。特に、学歴社会と言われるようになり始めると、何はさておいても、勉強部屋ということで、子供に個室を用意してやるのがあたりまえのようになってきました。ところが、このプライヴァシーという考え方は、もともと西洋的観念で、西洋人の世界観を抜きにしては考えられないのですが、日本には単なる個人の秘密主義といった表面的意識だけが流れ込んでしまい、そうしたところに問題がおきてきているように思うのです。つまり、本来、プライヴァシーとは1人1人の強固な自我意識によって裏付けされて初めて成立するものですけれど、日本人の場合、その辺を暖昧にしたまま、何となく穴に籠るような形で、私性ということが言われてきましたので、非常にその表われ方がネガティブな性質を持っているということなのです。西洋人は、個性をもった独立した存在として、小さい時から厳しく躾けられる中で、個人としての自我意識を育ててくるのですが、日本の場合、あくまで子供は親の付属物といった保護の中で育てられる場合が多く、結局、大人になっても家族どうしがおたがい漠然と寄りかかったままプライヴァシーということを言うものですから、変にギクシャクしたものになってしまうという所があるようです。こうした日本人的なれあいが、親と子の間で変にこじれてしまった場合、子供の非行として表われるのであり、社会にそのまま持ちこされた場合、それが責任の所在の曖昧さとなり、日本人の道徳感の無さとして表われてくるのかも知れません。

このように、住宅においてプライヴァシーという概念が日本人には未だ感性化されていなかった時点で、個室化が急速に無自覚に行われてしまったことは、かえって家の求心性が薄れてしまうというマイナス効果を生みだしてしまったように思えるのです。子供は、個室を与えられたのはいいが、そこで行き場を失ない、親は親でぽつんとテレビの前に取り残されてしまうという貧しい光最を作ってしまったのです。プライヴァシーとは個人尊重の意味で、もっと積極的なものであり、けっして逃避的な概念ではありません。他人と接触していく上での基本的な姿勢であり、コミュニケイションを前提とした上で初めてプライヴァシーというものが機能するように私には思えます。ですから、家族が皆でいっしょにいれる空間の設定をおろそかにしたまま、個室化を進めた結果が、こうした家族間の意識のズレを必要以上に大きなものとしてきてしまったということが言えるのではないでしょうか。子供に個室が必要なのは、勉強とか、プライヴァシーとかいう以上に、子供の自我意識を育てていくために必要なのです。その為には、勉強部屋を作って放り込んでおけばよい、というものでは決してありません。

 コミュニケイションといっても、大袈裟に考える必要はないのです。何も顔をつき合わせて「あなたは今何を悩んでいるのか」といったことを話しあえというのではありません。ただ家族皆が何となくいっしょにいて勝手なことをしている。旦那さんが釣りの道具の手人れをしていれば、奥さんが仕事場でアイロン掛けをしているのが見え、側で子供さんが絵をかいたり、雑誌をめくっていたりする。それぞれ勝手なことをしているのだけれど、家というものの中で、無意識のうちに何となく結ばれている。そうしたスキンシップが以外と人切な意味をもっていると思うのです。そうした意味で、家の中心としての居間の設定のしかたは、大変大事なものとなってくるはずです。家のどこにいても、その気配で何となく家族の存在が感じとられ、やがて皆がひとりでに集まってくるような魅力のある空間の演出が必要になってくるでしょう。そうした自然に家族を包み込む快的でゆったりとした空間の提示が、今住空間を構成する上で中心にすえなければならい課題であるように思います。コミュニケイションの場を確保した上で、プライヴァシーということを考えても遅くはありません。幸せな家族生活があってこそ、住空間は活性化するのです。




[) 空間の豊かさを表現しよう!

部屋といえば、四角四面の空間しかイメージに浮かばないとしたら、はなはだ貧弱な想像力でしかありません。もっと柔軟な発想で、住まいの空間をとらえてみましょう。空間は、私たちが思っている以上に、豊かに変化します。部屋は四角なものだというような固定観念が空間を窒息させてしまうのです。私たち建築家白身、設計段階で予想していた以上の空間の豊かさに驚かされることがしばしばあります。そうした空間の豊かさを可能な限り引き出すには、私たちの想像力もまた最大限に働かさなければなりません。私たちが積極的に空間に働きかけなければ、空間も私たちに少しも働きかけてきてくれないのです。動的な空間は、私たちの気分を生き生きしたものにしてくれます。

いつも狭苦しい部屋にばかりいますと、私たちの行動そのものが、非常に不活発なものになりがちです。小さな部屋と大きな部屋に、それぞれ子供を入れますと、大きな部屋に入れられた場合のほうが、子供が部屋から飛び出してくる回数は、ずっと多くなってくるというデーターがあります。これは、小きな空間では、子供の動きそのものが止まってしまい、大きな空間だと動きそのものにいきおいが付いてくるということなのです。心理的に、人間は動き回ることによってそのテリトリーを確保するのです。そうした人間の本能的な意味からも、大きなのびやかな空間が、人間の心身にとってとても大切なものだということが分るかと思います。敷地条件や経済的条件が大変きびしくとも、空間の設定の仕立てによってこうしたのびやかさを演出することは可能なはずです。

とかく、必要な部屋数ばかりに気を取られますと、同じような小さな部屋ばかりが並んだ変化のない魅力の乏しい住宅になりがちです。家を新築するとなるとあれやこれやと何でもいっしょくたに作ってしまおうとする傾向がありますが、条件をよく整理すると、以外に無駄な部屋を作ろうとしていることが多いのです。広さに余裕のある場合ですと、予備室を設けることも結構なのですが、条件のきびしい場合は、年に数回しか利用されない部屋をわざわざ設けるよりも、居間の一部を利用して、普段は生活の場として使い、いざというときは客間にもなる、そうしたフレキシビリティのある作り方を考えていったほうがよいと思います。自分たらの住まいなのですから、自分たちの生活を中心に考えてゆくべきです。そうして、山来るだけ、皆が集まる場所として、居間を広くゆったりとしたものにしてゆく必要があるでしょう。私が考えるに、居間として機能するには最低12帖、一般的には16帖ほどの空間の広さが必要でしょう。そこは、思いきって変化のある豊かな空間として演出しましょう。そこが快的で魅力のあるものであれば、おのずと人が集まり、多くの時間をそこで過ごすことになるでしょうから、家族のコミュニケイションの輪も自然と広がるでしょう。

空間には、連続性があり、リズムがあります。空間の豊かさを弓き出すにはそれらをうまく組み立てていかなければなりません。部屋と部屋との空間の有機的連続性をはかり、そのボリュームの対比によってリズミカルに空間を流動させてゆくことが大切です。さらに空間は内部だけにとどまりません。外部が内部に進人し、内部が外部に流れ出すような設定をすれば、さらに空間の領域は広まってゆきます。豊かな空間体験は、私たらの気持ちを蘇生させ生活に変化を与えてくれます。それにはまず、私たちの心を、イマジネーションを全開にすることです。

 

\) 文化としての建築を考えよう!

 日本はJNP世界第2位ということで、その国力を世界に誇示するところまできましたが、ほんとうに私たちは豊かさを手に入れることが出来たでしょうか。真に豊かな社会とは、私たち1人1人が大切にあつかわれる社会のことであるはずです。経済的効果だけから、すべての価値が決まるわけではありません。住まいも単に労働力を再生産するだけの場所ではないのです。2DKとか3LDKとかいう考え方も、そうした一面的なものの考え方からの発想でしかないように思えます。場合によっては、3LDKよりも1DKのほうが、住みやすいということもあるのです。

私たちの身の回りのちょっとしたものでも、現在手に入らないものはないといっていいでしょう。しかし、ほんとうに自分が欲しいもの、手に入れたいと思っているものとなると以外になかなか手に入りにくいといったことを経験なさった方は多いと思います。それは今まで、使う側からの視点ではなく、作る側からの論理によってものが作られてきたからではないかと思います。それに戦後、高度成長の神話が崩れるまで、確かに消費者自身も、与えられるものは良いものだと無批判に受け入れる傾向があったと思います。しかし、大企業は必ずしも消費者のことを考えているわけではないし、国も必ずしも国民1人1人の利益を守る為に動いているわけでもないことが分ってきました。そして、今、私たちは杜会に向けて人間性の回復と多様性を主張するようになってきました。ところがこうした要求を満たしていくには、今までの工業製品のような単なる一本調子の大量生産方式では不都合になり、より高度な生産体系を作り上げていかなければならなくなりました。住宅においても、個々の人々に対応した住まいということになると、それだけ手間と時間がかかるということになるわけですが、それを安く、迅速に行える技術体系が、真の意味で、私たちにとっての進歩といえるものであるのだと思います。このように、ある面で、消費者のより多様なニ一ズと、新しい感覚が技術の発展をうながし、文明の豊かさを生み出していく力になるということがいえるでしょう。それは逆に、消費者に、より確かなものを見極める力と、より柔軟で高度な価値観を身につけることを要求するものであるということがいえます。現在の商業主義的な住宅供給体制をただ追認しているという状態から脱脚していくには、こうしたユーザー1人1人の自由で創造性のある姿勢が期待されているのです。そして、さらにこうして作り出されてきたものが、消費者の確かな審美眼と、厳しい選定力によって淘汰されていったときに、初めて、そうしたものがおのずから文化とよべるものになっていくのだと思うのです。

特に建築においては、その実用的な面ばかりでなく、社会的、歴史的側面を強く持つものですから、そうした文化的意味はより重要なものとなってくるはずです。つまり、住宅を含め、建築は私たちの外部的環境を作りだすとともに、数世代に亘って共有されていくものですから、一般の耐久消費材以上にその社会的、歴史的価値のストックというものを考えていかなければならないということなのです。ある世代が工夫し創り上げたものを次の世代がそれをより発展継承していく、そうした連続性が本来の建築文化というものを高め、確かなものとしていくのです。建築の質というものは、私たちの個々の皮膚感党によって学び取られ受けつがれていく性質のものですから、そこで生まれ育っていく生の環境として、あくまで私たちの身近かな一般的な建物のレベルがより重要な意味をもっているのです。そうした意味において、私たちが、未だ戦前の住宅の質をのりこえることも出来ないまま迷い続けているということは、いかに太平洋戦争による住宅の歴史的中断が多きな損失をもたらしたかを物語っているということができましょう。このままの状態では住宅の文化的遺産として、私たちは次の世代に何ら確かな足どりをも残すことなく終わってしまう可能性が強いのです。住宅は現在、私たちがよりよく住まうものでなければならないと同時に、次の世代にとっての確かな足がかりとして用意されなければならないものでもあるのです。



])努カしないで自分の夢は実現しない。

 さて、今まで述べてきましたことを総括しますと、住宅とは自分たちのライフスタイルにあった新たな空間の創造の場なのであるということになるでしょう。おしきせの空間でなく、自分たちのスタイルで住みこなす自由な空間であるからには、どうして他人まかせにできますでしょうか。確かに、プレハブや建売を購入したり、工務店にまかせてしまえば事は簡単です。しかし、繰り返し述べてきましたように、そうしたやり方ではけっして住宅に積極的な意味を見つけ出すことは出来ないでしょう。ほんとうに、自分たちの夢や希望を実現しようと思うなら、やはりそれなりの努力が必要だと思います。

 建築家に依頼される場合でも、住宅を作り上げる主体は、その住まい手にあるということを忘れないでいてもらいたいのです。私たち建築家も、建物を作るのが商売ですから、黙って頼まれればそれなりの家を作り上げることは出来るでしょうが、それでは誰の為の住宅か解らなくなってしまいます。建築という行為は、本来、建築工事というハードな段階に先立って、設計というソフトな段階が必要なことは言うまでもありません。設計のなかでも特に基本設計といわれる段階が、無から有を生じさせるという意味で、決定的に重要な時期なのです。その時点で、住まい手がいかに建築家とコミュニケイト出来たかということで、住宅の良し悪しは決まってしまうのだと思います。「私たちが造ろうとする住宅は、半年から1年はかかりますよ。」というとびっくりなさる方が多いのですが、それでも、この基本設計にあてられる期間は、1ヵ戸1から2ヵ月ほどしかないのです。出来上がってから数十年住まうことを考えるなら、こうした期問を十分に吟味する時として我慢出来ないことはないはずです。また、そうした努力は、ものを創り上げる行為にかかわることですから、もともと苦痛ではなく楽しみなはずだと思います。それにそうした行為を通して、ものに対する関わりが深められてきますので、建物が出来上がってからの愛着も、他人まかせの場合とは全く異なった意味として感じとられるはずです。

工務店に頼むのはほんとうは一番最後なのです。まず、自分を語るところから始めましょう。どんなささいなことでもかまわないのです。自分たちが常日頃考えている身近なことがらからでもいいのです。私たち建築家は、そうした皆様の話の断片から、皆様の抱いていらっしゃるイメージを把握しようと努めます。設計はそこから始まるのです。勿論、私たちの側からの提案があり、反証があるでしょう。そうしてコミュニケイションを重ねながら対立したり、賛成しあったりする中で、徐々に具体的な形として、住宅は描き取られてくるのです。住宅雑誌をいくら眺めていても住宅展示場にいくら足を運んでも、こうしたアプローチを間違えてしまえば、自分たちの夢は現実のものとはなりません。私たち建築家は皆様の住宅へ向けられる情熱を期待しています。そうした情熱に答えられることが、私たち建築家にとっては、無上の喜びとするところなのです。もっと積極的に、私たち建築家に働きかけてきてくれることを望む次第です


サボワ邸/ル・コルビジェ
加地邸/遠藤新
drawing by F.L..Wright
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