住まいに関する10の提案



私たちのこれからの住宅をいっしょに夢み考えてゆくパートナーとして、建築家の立場から新たな住まいを創り上げる為の1Oの提案をしたいと思います。私たちの住まいをもっと自由で楽しいものにしようではありませんか。










ミース/ファンズワース邸


U) 自分たちのライフスタイルをつかもう!

住まいを作っていく上で一番大切なことは、いきなり方眼用紙に必要な部屋数を間取っていくことではなく、建物そのものよりも、まず自分たちの在り方を、心静かに考えてみることなのです。自分たちのライフスタイルとは、いったいどういうものであるのかを自分の心に問い直してみて下さい。自分たちの夢や希望、あるいは欲望というものが、本来どういうものであったのか、あるいはこれからどうあるべきものなのかということを正確に測り出してみてもらいたいのです。それがすべての出発であり、すべての中心であらねばならないと思うからです。私たちは、借りものの住宅を作ろうと思っているのではありません。住宅の質ということを言うのなら、それはそこに住まう人の個性に、その住空問がどれだけ対応しているかという点で問われなければならないものだと思います。人の顔が千差万別であるように、住宅もそこに住まう人によって、様々な形があるべきなのです。

様々な生活スタイルがあると思います。自分の中にある望ましい生活のイメージを正直に書き出してみようではありませんか。そうです、出来るだけ、素直な気持ちで正直に書き出さなければ意味がありません。既成概念や、見栄はもう捨てたのです。使いもしない応接間とか、ステータスシンボルとしてだけのシャンデリア、実際火もくべられない大理石のマントルピース、場所ばかりとる応接三点セットのことなどはもうお忘れ下さい。どういう場所で、どういう格好でいるのが自分は一番くつろげるのか。いつも奥さんの顔を、あるいは旦那さんの顔を見ていたいのか、それともそうでないのか。台所の仕事は好きなのか嫌いなのか。TVはやっぱり生活の中心に置いておきたいのか。それとも1人で本を読んでいるほうが好きなのか。あるいは、朝型なのか夜型なのか。子供とのコミュニケイションを断えず持っていたいと思うのか、それとも、なるべく放任主でおいておきたいのか。外出は好きなのか嫌いなのか。皆といっしょにいたいと思うのか、それとも1人でいたほうがほんとは好きなのか。等々、すべてそれらは、すべからく住まいのあり方、空間の構成にはね返ってくるのです。もし、あなたが夜型の人間であるなら、家の造り方は、徹底的に変わってこざるを得ません。もし、あなたが社交家で多くの人が集まるのを好むなら、そうした空問の設定をあらかじめしなければならないのです。あなたが、たとえソファに座って洋酒をたしなみながら音楽に耳を傾けているような図を想像しても、実際はコタツに入って日本酒を傾けるほうが性にあっているのであれば、本当にそうした生活に切り替える気持ちがあるならまだしも、単に、今風に、ということだけからならば、とても無駄な空間を作ってしまうことになってしまいます。

繰り返しますが、私たちは惜りものの空問を作ろうと思っているのではありません。他でもない、自分自身の私性の空間を創出しようとしているのです。そうした意味で、住空間とは極めて微妙で、かつ繊細な次元の問題であるべきものなのです。誰にも遠慮はいらないのです。心おきなく、自分たちの夢や希望や欲望を素直に書き出してみましょう。それをいかにして可能な範囲で形にしていくかというのが、私たち建築家の努めなのですから。


V) はっきりとしたコンセプトを持とう!


 住宅とは、ひとつの主張であると思います。服装にしても、普通他人が自分と全く同じような装いでいるのを見つけたような時、何か気恥しい思いがして落ち着きを失ってしまいがちです。服装が単に、私たちの体を外的条件から保護するという目的ばかりでなく、その人の人格やセンスの表われでもあるように、住宅も、私たちの生活の単なる入れものということだけではなく、私たちのライフスタイルの積極的な主張の表われでなければならないと思います。自分の気に入った服を身につけている時、私たちは、余裕を持って自分白身を演出することが出来ます。同じように、住宅も自分たちの生き方や、考え方にぴったりしたものであれば、自由で活発な生活を築いてゆくことが出来るでしょう。それは見栄とか虚栄心というのとは全く違う次元のものです。自分自身を演出するのに、必ずしも高価な服装でなければならないということはありません。シンプルで、ラフな装いでも、その着こなし方でとても好ましい印象を作り出すことは出来るでしょう。住宅でも同じことです。快適で美しい個性のある住まいを作るには、相当の費用をかけなければならないと思うのは間違いです。逆に不相応のお金のかけ方や、外見だけ大邸宅風なものを真似るやり方は、かえって見苦しいものです。要は、装いの基本が、自分の特質をよく把握することであるように、住宅においても、まず自分たちの生活のあり方をよく見極めることなのです。

本来、住宅はハードなものの組み合わせから成り立っていますが、それらが無秩序に組み立てられていいはずはありません。それらを秩序だて、個性のある空間を生み出してゆくには、そこに何らかの基本的な視点、ある種の原則を設定してやる必要があります。そうした住まいを作り上げてゆくソフトな部分が、ここでいうコンセプトに当たるわけです。今までは、そうした住宅建築のコンセプトは、和風という伝統的慣習が肩代わりしていたのです。和室ということだけで、土壁、畳、床の問、障子、杉征の天井と。いったものが、ワンセットで出来上がっていたのです。しかし、ここでそうした不自由な一慣習から私たちは脱け出そうとしているのですから、当然それに代わるアプローチの仕方を用意しなければなりません。そうした新しいコンセプトを導き出す前提として、(U)の自分たらのライフスタイルをつかもうという提案がなされたわけです

さて、自分たちのあるべきライフスタイルがある程度見えてきましたなら、そこには必ず共通する傾向なり考え方があるはずですから、それを抽出し、ある複数のテーマとしてまとめてみましょう。例えば“コミュニティを大事にした空問"“ふれあいのある生活"“個人の生活に干渉しない住まい方"“自然でのびやかな空問"あるいは“都市生活の拠点としてのハイテックな空間"“哲学的瞑想を深める為の住まい"というのでもいいでしょう。はなはだ抽象的なものでも、もっと具体的なものでもかまわないのです。勿論、こうしたテーマを設定する時点においては、すでに私たち建築家との関わりもかなり深まっているでしょうから、いっしょにそうしたテーマを探し出すことになるでしょう。場合によっては家族の中で、相反するテーマが出てくるかもしれませんが、それはそれでかまわないと思います。また、それはそれでおもしろい結果が期待出来るかもしれませんから。ただ、初めから何も期待されていない住宅は、出来上がっても何の特色もない住宅にしかならないということは事実です。それほどこの時点での思考は、大切なものだと考えてもらいたいのです。こうして設定されたテーマを基に、今度は、私たち建築家自身の闘いが始まるのです。そうしたテーマを、どのように建築的コンセプトに翻訳し、貝体的にどのように建築空問の中に仕掛けてゆくかということが、私たち建築家の技量の問われる部分でもあるのですから。このように、空間への主張が強くはたらけばはたらく程、住宅はおもしろいものになってくるはずです。



1V) もっと遊び心を取り入れよう!

数寄という言葉があります。数寄屋建築とか、佗び数寄の数寄です。今では、風流とか茶の湯の為の建物などを指すようになってきましたが、もともとは“好き"のスキであって“もの好き"とか“自分の好み"ということから出てきている言葉なのです。数寄屋建築というと、今ではその造作作法といったものは、すべて細かく慣習的手法が決められています。特に茶室などは流派による多少の違いはありますが、掛け軸や茶道具を掛けておく金物の位置にいたるまで、すべて寸単位で指定されているといった具合です。しかし、これは昔の人の数寄という言葉への思い入れといったものからは、はなはだかけ離れていると言わざるを得ません。本来、数寄屋とは、本人の好みとか美意識とかを最大限にとり入れた自由な発想によって作られる建物であったはずなのです。利休の妙喜庵待庵にしても、数寄屋建築の傑作といわれる桂離宮にしても、その驚く程の自由奔放さは、目を見はるばかりです。和風伝統の中には、もともとそうした自由闊達な思想が脈々と流れていたのです。伝統というものも、その本来のあるべき心を汲みとろうとしない限り、単なる小手先だけの模倣に堕してしまうでしょう。そうした意味では、数寄の精神は、モダニズムの建築の精神に一脈通ずる所があるように思います。

さあ、もう一度、数寄の精神に立ち返って、自由な発想によって住まいの空間を考えてみようではありませんか。今まで住宅は「住む機械」だとか言われてきたように、あまりにも機能とか効率とかの面だけが強調されすぎてきたように思います。単に、住宅は、食事をして寝るだけの空間ではありません。住宅は、人間にとってより本質的で、精神性の強いものです。住まいが、私たちの生活の拠点であるのならば、ロッジュカイヨワやホイジンガーの指摘したように、遊びが人間の行為にとって本質的なものであるという観点から、遊びの精神で空問を満たすことは、より自然で人間的な営みであるといえましょう。何も、苦虫を噛みうぶしたような顔ばかりしているのが人生ではありません。特に、現代は個人の闘争心を煽る競争社会です。そうした索漠とした風潮から、自分の人間性を守る為にも、住空間に遊びのイデオムを持ち込むことは有効なことだと思います。それらの空間は、私たちに優しさと子供の頃の懐かしさを思い出させてくれるでしょう。

ひなたぼっこをする空間、風と対話する空間、ネコと戯れる部屋、または誰も知らない部屋とか、外部と内部が半転する空間などもおもしろいでしょう。あるいは、食堂の中にブールがあってもいいし、温室の中に浴槽をしつらえてもいいのです。モダニズムの住空問として、様々な豊かな手法がすでに私たちの手の中にあるのです。それを使わない法はありません。また、皆様から全く新しい発想が出れば、私たち建築家はきっと大歓迎するでしょう。建築は、豊かな遊びのプレイグラウンドだといった建築家がいます。私たちに、ユーモアとちょっとした発想の転換があれば、私たちの住まいの空間を、新鮮な驚きと発見で満たすことが出来るのです。さあ、住宅を私たちの遊びのべ一スキャンプに仕立て上げようではありませんか。



V) 光と緑と風の中で、ゆとりについて考えよう!

基本的に人問は、自然からは離れられない存在です。自然的環境が薄れてくればくる程、自然への欲求は強まってきます。自然に触れるのは私たちの大きな喜びのはずです。社会が高度化し、どれ程文明が進もうと、自然は残るでしょうし、また残さなければならないものです。いや、むしろ、高度な文明とは、人間が地球上の他の生物と適度に共存共栄していくことを可能にするところの知性を意味するものでなければなりません。光と緑と風とは豊かな自然の恵みです。これらを、ふんだんに住まいの中にとりこもうではありませんか。少なくとも、そうしたものに触れ、自然のサイクルを身を持って感じとっている限り、私たちは、地球上の一生物にしかすぎないということ、または、私たちは決して孤独な存在ではないということ、そうした謙虚で優しい気持らを忘れないでいることができるでしょうから。

 今や、別荘とか保養所とかでない限り、住宅は大半が都市型住居になりつつありますが、言うまでもなく、住宅にとってまわりの環境は非常に大切なものです。緑豊かな恵まれた環境に土地を求められた場合は、当然まわりのそうした好条件を積極的に建物の中に生かしていくことを考えなければなりませんし、そうした大切な外部環境を壊さないよう気をくばることも忘れてはならないことです。周りが密集地帯で木を植えようにも植えられないといった悪条件のもとであったとしても、すぐさま、自然への思いを諦めてしまうのは早すぎます。かえって、うるおいの少ないそうした都市環境の中に住まざるを得ないからこそ、内部には何とかして.ふんだんな光と、適度な風と、緑の演出をとり入れることを考え、外部には、ささやかでもちょっとした緑の空間を設定してやることによって、周りの環境にうるおいを与えてやることが必要なのではないかと思います。勿論、郊外に建つ住宅と、市街地に建つ住宅とでは、自然の取り入れ方の手法は大きく違ってきますが、その取り込み方の工夫を間違わなければ、同じように自然の恵みを確保出来るはずです。

私は、光と緑と風は、住宅の快適さの基本条件と考えますので、私が住宅設計をする場合、これらの3つの条件は前提条件として、他の与条件と見え隠れしながら連携し表現されるでしょう。家の中心となる広間は、出来れば南面する壁を、一面全部ガラス窓にするのが良いでしょう。そして、日光浴の為のテラスや、サンルームといったもので外部に連ねていきましょう。南面がどうしても隣家に塞がれて陽があたらないような時は、思いきって壁で閉じてしまって、そこの上部に大きなトップライトを設け、その下を居間や温室として利用しましょう。台所や、食堂も、今や大事なコミュニティの場です。思いきってさんさんとあふれる陽の光で満たしましょう。方法は目的によって導かれてくるのです。最初から、そうしたものを諦めてはいけません。

豊かな住環境は、豊かな人間性を育みます。暗いじめじめした場所にばかりいたのでは、その精神性も歪みがちになってきます。冬の日の窓辺の陽だまりや、夏の日の木もれ陽、鮮やかな木々の緑や、そよ風に揺れる木の葉など、そうした移りゆく自然とともに、いっしょに呼吸し、生きづいていく空間こそが、私たちに真の人間らしさとは何かということを教えてくれるのではないでしょうか。

 

T) 既成概念から脱皮しよう!


 まず、住宅をとりまく様々な誤った価値観や、先入観を捨てさりましょう。何故、建具はサッシでなければならないのでしょう。何故、照明は蛍光灯でなければいけないのでしょう。何故、トイレの床はタイルでなければいけないのでしょう。何故、和室には床の間があって、畳が敷かれていなければいけないのでしょう。何故、玄関などというものが必要なのでしょう。私たちが、普段なにげなく見すごし受け入れているものでも、ひとつひとつ見直してみると、大変不合理なことがたくさんあるものです。例えば、玄関というものを取り上げてみても、設計条件が極めてきびしくて、床面積が思うようにとれない場合などのときに、玄関そのものをひとつの部屋として設定するか、居間の一部に取り入れてしまうことによって、思ってもいなかった効果を引き出すことが出来るものです。
 そうです。私たちは、常識の枠にあまりにも捕われすぎていて、住まいに関しての自由な発想が出来なくなっていることが多いのです。普通、素人の方が、新しく家を建てる時、間取図を描きますが、それは現在自分が住んでいる家か、かつて住んだことのある家を下じきにして考えますから、どうしてもその焼き直しにしか過ぎないものになってしまう傾向があります。それでは、同じ問違いを2度繰り返してしまう危険が大いにあるのです。最初にすべきことは、鉛筆をもって間取り図を描くことではありません。自分にとって、何が一番大事なのか、何が一番必要なのかということをもう一度考えてみて下さい。そして、現在、自分が手にしているコマだけで考えるのではなく、新しい考え方や新しい空問などに積極的にアプローチしてみることも大事なことです。1つのものを、1つの観点からばかり眺めるのではなく、他の観点からとらえてみることも、新たな価値の創造につながるものです。私たち建築家は、多くの観点から皆様のものの見方に疑問を差しはさむことになるかも知れません。そうした試行錯誤を通して、常識のウソを1つ1つ検証していってもらいたいのです。その上で、ほんとうに、これは自分たちにとって必要な要素であると判断出来たのであれば、たとえ、それが慣習的なものであれ、全く常識的な使われ方でないものであれ、それを積極的に取り入れてゆくことに恐れを抱くことはないのです。

また、意外性は、生活の活性化にもつながります。要は自分たちの目的に叶った自由な空間をいかにして創造するかにあるわけです。トイレにジュータンが敷かれていてもいいのです。畳のない和室も、畳のある洋室も、ともに可能なおもしろい空間にしてゆくことは出来るのです。玄関など私たちには必要はない、その分、台所を広くしたいという希望であるなら、玄関など取り払いましょう。見栄や体裁で住宅を作ることはもう止めようではないですか。私たちは家にあわせて住まうのではありません。私たちの生活スタイルに合わせて、家があるべきなのです。

フランクロイドライト/落水荘
by手塚建築研究所
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